みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

歴史のワンパターンである一神教と多神教の関係??

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よく「歴史は繰り返す」といいますが、これは歴史がワンパターンであるからです。

 

 一神教と多神教の関係も、とてもワンパターンです。人類の歴史は、一神教と多神教が広まったり、融合した歴史であったといえるかもしれません。

 

環境が過酷な状態になると、一神教の神や人などを敬ったり、リーダーとしてたてたりします。

 

子供のころ、隣りのクラスのいじめっ子達がやってくると、クラス内でリーダーを決め、隣りのクラスに対抗しようとします。

 

それと同じです。

 

ヨーロッパの国々は、中国よりも狭い地域に多数の国がありました。隣りの国が攻めてくると、国内でリーダーを決め対抗します。

 

隣国に負けない、より強いリーダーをつくるためには、神格化してカリスマ化する必要がありました。そこから一神教が尊ばれるようになったのです。

 

そして、ヨーロッパ全体が一神教であるキリスト教を信仰するようになりました。

 

ヨーロッパに比較して東洋は、広い地域で自然環境に恵まれていました。ヨーロッパほど環境が過酷ではなかったのです。

 

だから一神教のような強力なリーダーを求めるような信仰は、ある時期まで必要性が低かったのです。

 

もともと多神教の国であった日本も、一時的に一神教が広まった時期が3回ほどありました。

 

いずれも過酷な状況におかれた時でした。

 

 

中国の一神教とは何か

 

中国の三大宗教は、儒教、仏教、道教といわれています。秦の法事国家を除いて、三大宗教が代わる代わる国教として信仰されていました。

 

この中国三大宗教は、神を信仰したりしないので、一神教とはいえない面もありました。

 

ところが、宋の時代、一神教が現れたのです。儒教から派生した朱子学です。中国は世界の中心という中華思想です。それまでの中国三大宗教と違い、たいへん求心力の強い教えでした。

 

西遼、金、西夏などの異民族に圧迫されていた宋は、国内の団結力を強めるため、朱子学を国教としたのでした。

 

しかし、ヨーロッパのように国同士の文明の戦いがおこらなかったため、朱子学のおかげで、進歩が遅れてしまいました。

 

 

日本にも一神教の時代があった

 

飛鳥時代、日本が大陸の唐や新羅の脅威を受けたとき、天皇が誕生しました。神話の時代から天皇は続いていいるのですが、天皇という呼称がつかわれたのが、この時代でした。

 

それまでは、大君とか大王とか呼ばれていたのです。天皇と呼ぶことによって権威を高め、唐や新羅に対抗しようとしたのです。

 

少し一神教に近いですね。

 

ほぼ完璧に一神教に近い時代がありました。戦国時代の浄土真宗です。宗主を生き仏として、阿弥陀仏を拝むことによって西方浄土にいけるとした教えです。

 

戦国の過酷な状況が、浄土真宗を一神教のような信仰に変貌させたのでした。浄土真宗の門徒は、日本のキリシタンとまでよばれています。

 

昭和初期は、天皇を信仰する国家神道なるものが生まれました。これは、まさしく一神教でした。

 

仏教を禁止する廃仏毀釈令がだされ、お寺が破壊されたのです。奈良の興福寺も、この時に壊されました。

 

アメリカやイギリス、中国などを敵にまわしていた日本は、一神教で国内を団結する必要があったのです。

 

いずれにしろ、過酷な状況におかれると、一神教が生まれる傾向にあるわけです。

 

 

ひとこと

 

日本人は、クリスマスはキリスト教、正月は神道、冠婚葬祭は仏教など、特定の宗教にこだわりません。

 

これも、日本が平和なおかげですね。

 

 

信長と光秀は、正直者がバカを見るの典型だった!?

 

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明智光秀が本能寺で、織田信長を殺害した理由について、いろいろな説があります。

 

でも、信長の自殺願望、徳川家康や秀吉の陰謀など、いまいち説得力に欠けます。文書で証拠が残っていないので、しかたありません。想像するしかないのです。

 

しかし、ひとつ言えることがあります。信長が正直すぎたため、周囲から恐れられ、その結果、横死してしまったということです。

 

石山本願寺の宗祖や、キリスト教の宣教師みたいにウソばかり言っていれば、おそらく本能寺の変は起こらなかったでしょう。

 

信長のおこなった政策は、ヨーロッパより数百年、早いものがありました。当然、当時の人々には、理解できないことばかりです。

 

その信長が天下を手中の収めつつあったのです。人々が不安にならないわけがありません。その点を見誤ったといえるでしょう。

 

いや、信長は、そのことをわかっていながら、宗教家のうようなウソを嫌い、真っ正直に突き進んで、自滅したといえるかもしれません。

 

それと、「もう天下をとったも同然だ」というような慢心もあったと思います。

 

もし、信長がウソばかり言っていれば、本能寺の変はおこらなかったかもしれませんね。

 

 

ウソつきが天下をとる

 

権力をつかむためには、ウソが欠かせません。歴史や近年の政治家を見ても、ウソつきが天下をとっています。

 

信長も、もう何年かウソをつき続ければ、天下がとれたことでしょう。

 

当初、信長もウソの名人でした。没落した将軍家の子孫である足利義昭を、京につれていき将軍にしたころは、誰もが信長のウソに騙されました。

 

足利義昭も周囲の人々も、信長が本気で足利幕府を再興するために忠義をつくしたと思ったのです。

 

将軍擁立の大義名分を得た信長は、近畿一帯の広大な領土を手中にすることができました。その後、将軍に利用価値がなくなると、蔑ろにするようになります。

 

このころまでの信長は、ウソのかたまりのような人間でした。

 

ところが、ストレスがそうとう溜まっていたのでしょうか。あるいは油断だったのでしょうか。だんだんウソがつけなくなり、本音をだすようになります。

 

重臣の佐久間信盛や林道勝を追放したり、天皇を蔑ろにする態度をとります。敵や造反者をつくる行動ばかりします。

 

これまで天下をとった人間の行動を見ると、天下をとるまでは、周囲を信用させるため、極力、疑われたり、恐れられたりすることはしません。

 

後の豊臣秀吉や徳川家康をみてもそうです。

 

秀吉は、ギリギリまで織田家再興のために動いているふりをしていました。家康も、関ヶ原で勝利するまで豊臣家への忠義を装っていました。家康は後に「タヌキじじい」というあだなまでつきました。二人とも大ウソつきだったのです。

 

また、家康の場合、豊臣側の大名を信用させ味方にしています。しかし、天下をとった後、それらの大半の大名を取り潰しています。味方に対しても大ウソつきでした。

 

敵を増やさないためには、ウソが大事です。

 

信長も、秀吉や家康と同じようにしていれば、99パーセント天下をとっていたでしょうね。残念!

 

 

光秀もバカ正直だった

 

「走狗煮らる」という言葉があります。ウサギや鳥がいなくなると、猟犬が必要なくなるので、煮て食べしまう、という意味です。

 

光秀は、自分も猟犬のように殺されると思ったのです。

 

すでに佐久間信盛や林道勝が追放されていました。次は自分の番だと思ったのでしょう。

 

天皇を蔑ろにする態度にも反感をもつ人々も多かったのです。それらを味方に引き込み、さらに反織田勢力と手を組めば、もしかしたら謀反が成功するかも、と考えたのかもしれません。

 

しかし、結果的に秀吉に天下を譲ることになってしまいました。

 

本能寺の変は、光秀が天下に「私は謀反人です」と正直に宣言したのも同じです。つまり、正直なため、天下を敵にまわすことになります。

 

バカ正直に謀反をおこした光秀が、ウソつきの秀吉に漁夫の利をとられてしまったのでした。

 

秀吉は、毛利に、信長が生きているような大ウソをついて、逃げてきたのです。

 

ある意味、信長も光秀も、正直者がバカを見るの典型だったかもしれませんね。

 

 

ひとこと

 

心に思ったことを、考えもせず、そのまま言葉や行動に移すとろくなことがありません。

 

常に自分の心や感情をコントロールすることが大事です。・・・・と思っても、なかなか難しいですね。

 

「信長とフロイスの対話」を書いて、一神教と多神教の面白さがわかった!!

 

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 小説「信長とフロイスの対話」は、一神教であるキリスト教と多神教のような仏教(?)について、信長とフロイスが、議論をしている小説です。

 

一神教と多神教というと、とてもつまらない感じがしますが、そうではないのです。

 

私も、神に話は、つまらないと思っていたのですが、小説を書き終わった後、そうでもないと思いました。

 

一神教と多神教が歴史に与えた影響は、なかなか興味深いです。

 

歴史の教科書やうんちく本を読むと、いろいろ書かれています。しかし、私なりに一神教と多神教の関係をとらえることができたのです。

 

・・・・と、一人で自己満足して喜んでいます。

 

 

西洋は原理主義と現実主義のバランスが良かった

 

一神教の原理主義の欠点は、一度、決められた教えが間違っていても、それを認めないことです。

 

原理主義に陥ると、自己犠牲や他人を犠牲にすることを正義とする信念ができてしまいます。古い話ですが、浅間山山荘事件や地下鉄サリン事件など、まさにそうでした。

 

西洋の魔女裁判や地動説への迫害など、数え切れないほどあります。

 

近年でも、電気理論で有名な、オームが発見した「オームの法則」も、神への冒涜といわれ、迫害されたのです。

 

だから一神教の原理主義は、とてつもない悪だ、という気がしてきますが、ヨーロッパではそうでもなかったのです。

 

なぜならば、原理主義を修正する機能があったからです。その機能とは、西洋の狭い地域にある多数の国々です。

 

ある国が一神教の原理主義に陥り、国力が衰退すると、他国から攻められ、負けたりします。

 

つまり、痛い目に合うのです。

 

痛い目に合った国は、反省して、「一神教の原理主義」ではダメだとなります。原理主義から「現実主義」になるのです。そして改革がおこります。

 

西洋は、常に国同士で反省したり欠点を教えあったりすることができたのです。

 

なので西洋は、一神教の原理主義にもかかわらず、長期的には原理主義に陥らず、現実を改革して、やがて産業革命を成しとげます。大いに発展することができました。

 

一神教の原理主義の長所は、ひとつの目標にむけて多くの人々を糾合できる点です。

 

西洋は、原理主義と現実主義のバランスが絶妙にコントロールされていたといえましょう。

 

 

多神教の東洋は、長期的には一神教の原理主義になった

 

西洋と逆の発展をしたのが東洋です。

 

中国や朝鮮は、もともとは多神教の国です。しかし、最後は、「中華思想」という一神教みたいな原理主義に陥ります。

 

具体的には、中華思想を賛美する朱子学の原理主義国家となります。

 

19世紀、中国、朝鮮は、自分達は世界の中心であるという原理主義から抜け出せなかったのです。西洋と違い、現実に目をむけることができなかったのです。

 

だから、当時の西洋列強に対抗することができず、領土を蚕食されました。

 

この原因は、中国、朝鮮は、西洋のような原理主義を修正する機能がなかったからです。西洋に比べると、平野が多く、多くの国が併存しにくい環境にあったことも一因でしょう。

 

現実主義よりも原理主義が優勢なまま、19世紀をむかえてしまい、西洋に大きく遅れをとってしまったのです。

 

日本は、島国だったので、中国や朝鮮の影響を受けず、原理主義よりも現実主義が優勢でした。なので明治維新をなしとげ、西洋の侵略を防ぐことができたのでしょう。

 

 

ひとこと

 

小説やブログ書いたり、本を読んだりすると、どんどん書きたいテーマが浮かんできます。

 

時間ができたら書きまくろうと思います。

 

こうしてブログに書くと、備忘録や小説を書くときの資料にもなります。ブログと小説の併用って、なかなか便利です。

  

小説を書くコツが少しわかった!?信長とフロイスの対話を小説にしてみた!!

 

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六冊目の小説「信長とフロイスの対話」をAmazon電子書籍に出版しました。

 

13ページしかないので、超短編小説です。長い物語にしたかったのですが、やはり無理でした。途中で力つきてしまいました。

 

プロの小説家は、膨大な書籍や資料を集めてから小説を書くそうです。私の場合、ネットでちょこちょこ調べる程度なので、長く書けるわけがありません。

 

あくまで仕事の合間の趣味として書いているので、仕方ありません。

 

でも、電子書籍のいいところは、後から書き足したり修正ができる点です。六冊の電子書籍を、暇なときに書き足していきたいと思います。

 

 

ヘタウマ小説を書くコツがわかった

 

よく紙に書いたことが実現するといわれています。私の場合、書いていると、いろいろなことに気づき、あれも書きたい、これも書きたいというアイデアが生まれます。

 

不思議なものです。

 

しかし、文章は、自分ながらにとても下手くそだと思っています。最初は、恥ずかしくて、Amazonに出版する気にはなれませんでした。

 

ところが、コツがあったのです。

 

それは、下手くそでもとにかく書いてみて、何度も読み返すことです。他人の文章を読む感覚であら探しをします。そして、修正をします。

 

時間がかかりますが、これをやると、かなり、まともな文章になっていきます。もちろん、自己満足の範囲でですが。

 

昔の小説家は、紙の原稿用紙に書いていましたから、こんなことはできません。今は、ワードか一太郎で簡単にできてしまいます。

 

ブログで書くのもいいですが、電子書籍は違った意味での楽しさがあります。

 

 

売れる工夫をしてみたい

 

しかし、たくさんの人に読んでもらわなければ楽しくありません。

 

一冊目を無料キャンペーンで出版したら、何千人もの人が読んでくれました。二冊目からは数百人が数十人という落ち込みようです。

 

電子書籍を出版する人が増えているせいかもしれません。あるいは、私の小説の内容が不評のせいかもしれません。

 

二冊目からは極端に短い小説になってしまったので、それが原因かもしれません。徐々にページ数を増やして、他の小説HP、「KOBO」や「小説家になろう」にも投稿したいと思います。

 

今は更新が休みがちなブログですが、ブログで宣伝するのもよさそうです。時間ができたら挑戦したいです。

 

 

ひとこと

 

電子書籍は、ブログを書くよりも時間がかかりますが、楽しいです。今後も続けていきたい趣味です。

 

 

   

鑑真の使命とは何か!?天台宗を伝えるために日本にきたのか?

  

 

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ブログは長いことお休みしていましたが、短編歴史小説を三冊書きました。

 

その中の一つ「鑑真の使命」は、我ながらに斬新な内容だと自己満足しています。でも、他人からみたら、アホだと思われるかもしれません。

 

鑑真は、戒律を説く律宗を日本に伝えたことで有名ですが、私は、絶対に天台宗を伝えにきたと思っています。

 

ところがネットや書籍を見てみると、律宗をメインに伝えにきて、天台宗はオマケで日本に持ち込んだ感じで書かれています。

 

絶対に違うと思います。

 

なぜならば、律宗は、会社でいえば就業規則のような教えだからです。勤務時間や休日、無断欠勤はいけない、セクハラもいけない、などというような細々とした規則が説かれているからです。

 

就業規則のような、つまらない教えを、命をかけてまで鑑真が日本へ伝えようとするでしょうか。

 

やはり社運をかけた極秘事項のようなものでないと、なかなか、あそこまで頑張れないと思います。

 

ちなみに仏教の代表的な戒律の五戒は、不殺生戒(生き物を故意に殺してはならない)、不偸盗戒(他人のものを盗んではいけない)、不邪婬戒(不道徳な性行為を行ってはならな)、不妄語戒(嘘をついてはいけない)、不飲酒戒(酒類を飲んではならない)・・・・・・などです。

 

お酒を飲んではいけないというのは、ちょっといやですね。実際は、酒のことを般若湯といってお坊さんはガブガブ飲んでいたそうです。

 

不道徳な性行為もかなり行っていました。これはあまり気持ちよくないので書かないことにします。

 

 

律宗よりも天台宗のほうが歴史に与えた影響が大きい

 

そうなんです。律宗は、比較的、影響力が非常に小さい宗派とも言えます。私の家の付近はおろか、どこへ行っても律宗の寺を見たことがありません。

 

それに比べると、天台宗と天台宗から派生した浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院の数はメチャクチャ多いです。

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それだけ天台宗の影響力が強かったことを物語っています。織田信長が争った宗派も天台宗、浄土真宗、日蓮宗などです。

 

戦国時代、この三宗派は巨大な暴力集団と化していました。ときに戦国大名以上の軍事力をもち、恐れられていました。

 

天台宗は、良い面でも悪い面でも歴史に大きな影響を与えたのです。

 

 

宗教は水や火と同じだ

 

水や火と同じで、利用の仕方で善にも悪にもなります。

 

火を誤って利用すると火傷や火事の災難を起こします。暖防や灯り、料理、風呂などに利用すれば恩恵をもたらします。

 

宗教もおなじではないか・・・・・と思っているのですが、これがなかなか難しい。

 

というのも宗教は、とても抽象的だからです。人によって、どのようにでも、とらえることができます。だいたい自分の都合のよいように解釈することが多いのではないでしょうか。

 

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だから天台宗からも土宗、浄土真宗、日蓮宗などの宗派が派生して、さらに孫やひ孫の宗派まで派生していきました。

 

あらゆる面で日本の宗教界に大きな影響を与えた天台宗は、それだけ価値のある教えなんだといえるのではないでしょうか。

 

そう考えると、やはり鑑真は天台宗を日本に伝えにきたと思ってしまいます。

 

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ひとこと

 

そもそも人間の心自体が、とても抽象的ですね。

トーテムポールが日本にも昔からあった!?高麗神社に行ってきた!

 

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日本人のルーツを探るのって、とても楽しいです。

 

もちろん、日本は多民族です。大きく分けて南方系と北方系にわかれます。

 

南方系が縄文人で、北方系が弥生人といわれています。

 

その北方系日本人の先祖のシンボルのひとつを、私は先週、見てきました。関東にある神社にあります。

 

それは石のトーテムポールです。たまたま仕事で付近をとおったので、寄ってみました。

 

トーテムポールといえば、アメリカ・インディアンのものが有名ですが、古代朝鮮で興った高句麗にもあったのです。

 

その石のトーテムポールは、この高麗神社の入り口にあります。

 

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高麗神社は、埼玉県日高市にあります。飛鳥時代、高句麗が滅亡したとき、日本に逃れてきた高句麗の王族が建立しました。

 

現在の神主は、60代目にあたります。

 

私の住まいから、そう遠くないところに、高句麗の子孫の神社があるなんて、最初、とても驚きました。

 

韓国歴史ドラマの世界が、圏央道の狭山・日高1Cをおりた付近にあったのです。

 

古代・高句麗の衣服も展示されています。

 

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韓国歴史ドラマの「朱蒙」や「広開土王」のなかで着られていた衣装に似ています。

   

高句麗人の関東での分布図をみると、古代、高句麗の人は、私の家の付近にも住んでいたみたいです。

 

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私の先祖も、もしかしたら高句麗人かもしれませんね。

  

私は一重瞼なので、北方系であることに間違いはありません。

 

 

ロシアのエベンキ族がトーテムポールをつくった

 

ロシア国内に住んでいるエベンキ族は、アマリカ・インディアンや東アジア人のルーツのひとつといわれています。

 

エベンキ族は、鹿の一種であるトナカイを主食にしていました。凍ったトナカイの肉を食べていたため、アゴが頑丈になり、エラのはった顔立ちになりました。

 

韓国にエラの張った顔の人が多いのも、エベンキ族の血が流れているせいかもしれませんね。

 

また、トナカイを崇拝するエベンキ族の習慣が、朝鮮半島北部の扶余に伝わり、百済、日本へと伝わった可能性があります。

 

扶余は鹿の意味があります。日本には鹿の名のつく神社が多いですが、エベンキ族の血が流れているのではないでしょうか。

 

もともとトーテムポールは、エベンキ族から発祥しました。

 

エベンキ族の子孫がアメリカ大陸や東アジアに移動して、トーテムポールも広まったのです。

 

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でも、中国東北部(朝鮮半島北部)は、木材資源に乏しかったため、石のトーテムポールができました。

 

日本にもトーテムポールが伝わったのですが、いつのまにか消えてしまいました。

 

消えた理由は諸説あります。儒教や仏教が伝わったからだとも、いわれています。

 

古代、古墳が日本中にありましたが、仏教の伝来により、古墳はまったくつくられなくなりました。それと同じです。

 

一方、儒教も仏教も伝わらなかったアメリカ大陸では、トーテムポールが消えずに残ったということになります。

 

中国発祥の茶道や花道が、中国では衰退しましたが、日本で発展しているのに似ていますね。

 

 

日本は、なぜ鳥居が多いのか

 

トーテムポールとは逆に、日本に鳥居はすごく多いですね。神社が多いから鳥居が多いわけです。

 

鳥居はトーテムポールと違い、現在でもメチャクチャたくさん存在しています。

 

なぜでしょうか?

 

ヨーロッパや中東など一神教の国ならば、日本にある神社などは排除されたと考えられます。

 

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しかし幸いなことに、日本には仏教が伝来しました。仏教は寛容な教えなので、日本古来の神や鳥居を排除することなく、共存できたのです。

 

また、聖徳太子の努力のたまものでもあります。仏教と日本古来の神道が共存できる教義をつくったのです。

 

ここが一神教の国と多神教の国の違いです。

 

さらに同じ東アジアでも、、中国や韓国の歴史ドラマを見ると、鳥居がめったにでてきません。

 

中国南方にある雲南省の木氏を描いた中国歴史ドラマ「絢爛たる一族~華と乱~」で、いくつか鳥居を目にする程度です。

 

中国・雲南省は、日本のルーツのひとつともいわれています。

 

いずれにしろ東アジアでも、日本が一番、鳥居が多いみたいです。

 

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アメリカにはトーテムポールがたくさんあり、日本は鳥居が多いです。それが現在のアメリカと日本が密接な関係をたもっている原因でしょうか?

 

いや、まったく関係ないでしょうね\(○^ω^○)/

 

 

ひとこと

 

トーテムポールのことを書いていたら、久々にディズニーランドにいきたくなりました。

 

「トムソーヤ島のいかだ」に乗りたいです(o゚▽゚)o

 

 

毛利敬親と島津斉彬は、まるで正反対だった?

 

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薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。

 

島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。

 

一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。

 

あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。

 

幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。

 

維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。

 

まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです?

 

 

毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか

 

戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約170万石まで領土を拡大させたのが、毛利元就です。

 

じつに数百倍に領土を拡大させたのですから、たいしたものです。

 

ところが元就の場合、戦で勝ち取ったというよりも、養子縁組謀略をメインにして領土を拡大しました。

 

養子縁組で得た領土がやたらと多いので、当然、広大な領地を持つ親族の家臣が多くなりました。

 

元就の孫である輝元が毛利家を継いだときは、川と小早川の叔父が実権を握っていました。

 

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また、輝元の叔母の嫁次先である宍戸家も重臣として、大きな力を持っていました。

 

だから輝元の代で、相対的に殿様の力が弱まっていきます。

 

そして関が原での敗戦が、さらに殿様の力を弱めました。約170万石から約36万石へと領地が削られたからです。

 

大勢の家臣を養うためには、殿様の直轄地も減らさざるおえません。殿様と家臣の領地の差が少なくなります。

 

それによって、毛利家の殿様は、ときには家臣の操り人形と化することもありました。

 

 

薩摩の殿様は強力な権力をもっていた

 

小領主の毛利家とは違い、戦国時代、島津家は大きな領地の大名としてスタートしました。

 

平安時代、九州の島津荘の荘官として、島津家の先祖・惟宗広言が下り勢力を拡大します。

 

鎌倉時代になると、初めて島津氏を称した島津忠久が、源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の3国の領地をもらったのです。

 

そして戦国時代も島津家の殿様は、由緒ある家柄と広大な直轄地を有していました。だから相対的に殿様の力が強かったのです。

 

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強力な権力をもつ島津家の殿様は、いくつもの敵国を破り、領地をどんどん拡大すしました。

 

関が原での敗戦でも、島津家は強気の姿勢で徳川家康と対抗して、領土を減らされません。

 

九州の最南端で、徳川側の勢力が攻めにくいという地理的な利点にも恵まれていました。

 

だから優柔不断な殿様が多かった毛利家とは違い、「島津にバカ殿なし」と言われるぐらい、優秀で強力なリーダーシップをもつ殿様が代々、輩出されたのです。

 

 

ひとこと

 

表面的には操り人形の毛利敬親でしたが、裏では高杉晋作や伊藤俊輔(後の伊藤博文)など開国派の人材を登用し活躍させ、倒幕の功労者としても有名です。

 

能ある鷹は爪を隠すというコトワザがありますが、「そうせい候」として敬親は、爪を隠していたのかもしれませんね。

 

( ̄ー ̄)ニヤリッ