みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

腰痛がやっと治った!掃除や仕事で腰を痛めないようにしよう!?

 

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今月1日の日曜日、風呂の掃除の後、短い柄のホウキで床を掃いていたら、突然、腰が「ギクッ」となりました。

 

その後、だんだん腰の痛みがつよくなり、トイレに入るのも苦痛でした。

 

翌日の朝、起きようとしたら、腰が痛くて起きられません。10分ぐらいもがいて、やっと起きられました。

 

こんな経験は初めてです。

 

腰の痛みなど、他人ごとのように思っていたのですが、実際、自分の身におこると、とてもつらいです。

 

一昨日あたりから、腰の痛みがほとんどなくなりました。

 

ヒザの調子が少しおかしいですが、椅子に座ってブログ記事の更新ができるまで回復することができました。

 

腰痛で外を歩くのも苦痛だったのですが、いまは痛みもなく歩けます。

 

普通に歩けることが、こんなにもありがたいと思ったことはありません。

\(^ ^)/

 

 

仕事で重いものを持っていたのが原因かも?

 

整骨院の先生から腰痛の原因について、説明されました。

 

ヒザを床につけないで、ゴシゴシと風呂の床をコスルと腰に大きな負担がかかるそうです。

 

また、短い柄のホウキで床を掃くと、腰を曲げた状態になるので、かなり腰に負担がかかるとのこと。

 

それに加えて片手てホウキを扱うと、腕の筋肉が腰にも影響を与えるため、さらに負担をかける、と言っていました。

 

なるほど・・・・と思いましたたが、以前も同じように掃除をしていたので、他にも原因があると思いました。

 

腰痛になってから一週間後の日曜日、朝はすぐ起きられるほど回復していました。

 

ところが翌日、月曜日、仕事で重いリックサックをかついだりしたら、翌日の火曜日、ふたたび朝、激しい腰痛があり、起きるのに10分ぐらいかかりました。

 

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だから単に掃除で腰を横にヒネッたからではなく、普段、仕事で重いものを持っていたことも原因だとわかりました。

 

重い荷物をもつとき、腰をかばって歩くため、右ヒザも痛むようになりました。

 

そのため、それまでのショルダーバックやリックサックをやめて、キャリーバックに替えました。

 

それから腰とヒザの痛みも少しずつ治まり、順調に回復していきました。

 

 

運動不足も原因かもしれない

 

3月は仕事が忙しかったので、腹筋ローラーなどの筋トレをなまけていました。

 

腰をかばう筋肉(インナーマッスル)のおとろえにより、腰痛になることがあるそうです。

 

だから運動不足も腰痛の原因だと思いました。

 

適度な運動とストレッチをやって、腰痛を予防したいと思います。

 

 

ホカロンと1,160円のコルセットが効いた

 

腰痛が激しいときは冷やしたほうがいいのですが、私の場合、ホカロンで痛みがおさえられました。

 

暖めて血流をよくすると、治りもはやいとのこと。ビタミンB剤も飲みました。

 

歩いたり、椅子に座っていると痛みがあったのですが、アマゾンで購入した1,160円のコルセットをつけたら、かなり改善しました。

 

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コルセットで腹圧を高め、腰を安定させることができるため、効果があるそうです。

 

安価なホカロンとコルセットには、大いに助けられました。

 

 

ひとこと

 

以前、初めて肩コリになったとき、5つの病院や施術院にいき、時間とお金を無駄に使ってしまいました。

 

その経験があるので、今回は整骨院に2回、通院しただけで、ネットでいろいろ治療方法を調べました。

 

こうゆう時、健康に関するHPやブログは、とてもありがたいです。

 

(*^ワ^*)

 

 

毛利敬親と島津斉彬は、まるで正反対だった?

 

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薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。

 

島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。

 

一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。

 

あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。

 

幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。

 

維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。

 

まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです?

 

 

毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか

 

戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約170万石まで領土を拡大させたのが、毛利元就です。

 

じつに数百倍に領土を拡大させたのですから、たいしたものです。

 

ところが元就の場合、戦で勝ち取ったというよりも、養子縁組謀略をメインにして領土を拡大しました。

 

養子縁組で得た領土がやたらと多いので、当然、広大な領地を持つ親族の家臣が多くなりました。

 

元就の孫である輝元が毛利家を継いだときは、川と小早川の叔父が実権を握っていました。

 

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また、輝元の叔母の嫁次先である宍戸家も重臣として、大きな力を持っていました。

 

だから輝元の代で、相対的に殿様の力が弱まっていきます。

 

そして関が原での敗戦が、さらに殿様の力を弱めました。約170万石から約36万石へと領地が削られたからです。

 

大勢の家臣を養うためには、殿様の直轄地も減らさざるおえません。殿様と家臣の領地の差が少なくなります。

 

それによって、毛利家の殿様は、ときには家臣の操り人形と化することもありました。

 

 

薩摩の殿様は強力な権力をもっていた

 

小領主の毛利家とは違い、戦国時代、島津家は大きな領地の大名としてスタートしました。

 

平安時代、九州の島津荘の荘官として、島津家の先祖・惟宗広言が下り勢力を拡大します。

 

鎌倉時代になると、初めて島津氏を称した島津忠久が、源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の3国の領地をもらったのです。

 

そして戦国時代も島津家の殿様は、由緒ある家柄と広大な直轄地を有していました。だから相対的に殿様の力が強かったのです。

 

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強力な権力をもつ島津家の殿様は、いくつもの敵国を破り、領地をどんどん拡大すしました。

 

関が原での敗戦でも、島津家は強気の姿勢で徳川家康と対抗して、領土を減らされません。

 

九州の最南端で、徳川側の勢力が攻めにくいという地理的な利点にも恵まれていました。

 

だから優柔不断な殿様が多かった毛利家とは違い、「島津にバカ殿なし」と言われるぐらい、優秀で強力なリーダーシップをもつ殿様が代々、輩出されたのです。

 

 

ひとこと

 

表面的には操り人形の毛利敬親でしたが、裏では高杉晋作や伊藤俊輔(後の伊藤博文)など開国派の人材を登用し活躍させ、倒幕の功労者としても有名です。

 

能ある鷹は爪を隠すというコトワザがありますが、「そうせい候」として敬親は、爪を隠していたのかもしれませんね。

 

( ̄ー ̄)ニヤリッ

 

 

豊臣秀吉の晩年は、カゴの中のサルみたいだった(´∀`)??

 

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以前、ペットショップでサルがカゴに入れられて販売されているのを、見たことがあります。

 

そのとき、晩年の豊臣秀吉を思い出しました。

 

天下というカゴに入れられ、苦悶する秀吉が浮かんできました。

 

天下をとったあたりまでの秀吉は、まさに絶好調で、自然のなかでたくましく生きる野猿のようでした。

 

ところが関白となった天下人から、だんだんサエない老人になっていきます。

 

まるで目に見えない天下というカゴが秀吉を、かんじがらめにしていたみたいです。

 

天下人として行き詰まりを感じていた秀吉は、人が変わったように残忍で衝動的な行為をおこないます。

 

何者かに「猿」と石に落書きされただけで怒り、多くの民や家来を処刑したりします。茶道の師である千利休や、甥の秀次とその家族も大勢、殺害しました。

 

そして無謀な明攻めで、多くの犠牲者をだしました。

 

 

ほころびだらけの秀吉の天下

 

なぜ、秀吉は晩年、おかしくなってしまったのでしょうか。

 

理由は簡単です。天下をとった後のことを考えないで、天下をとってしまったからです。

 

といっても、別に秀吉が好きこのんで、手抜きして天下をとったわけではありません。

 

信長亡き後、内外の敵に囲まれた秀吉は、「手抜き天下」をとるしかなかったのです。

 

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そうしなければ、他の勢力に秀吉は滅ぼされていたでしょう。

 

とても信長が目指した強固な天下をつくることは無理だったのです。

 

だから、島津や毛利、上杉、徳川などに大きな領土を与えてしまいました。また、時代に逆行するような行為である、朝廷の官位である関白になってしまいました。

 

これでは秀吉一代限りの天下になってしまうのは、目に見えてしまいます。

 

急いで、棚からぼたもち天下をとったため、ほころびだらけの天下となってしまったのです。

 

 

織田信長は天下の運営にも重点を置いた

 

信長は、少年のころから日本の様子がわかっていたようでした。

 

なぜ、戦が起こり、国が乱れるのか、その原因を、信長なりに理解していたようです。

 

富の不平等によって、争いが起きる、と考えていたのかもしれません。米経済の限界が争いを生じさせているとも思っていたかもしれません。

 

そのためには、すぐれた中央集権的な体制が必要です。島国の日本ならば、可能です。

 

だから信長は、最大の敵、石山本願寺を十年もかけて倒しました。

 

石山本願寺と戦わないで、天下を目指すことも可能だったのですが、それでは宗教勢力と妥協した軟弱な天下しかとれません。

 

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同じように他の戦国大名と、妥協してつくる天下も望みませんでした。

 

島津や毛利、上杉などの大きな勢力は、武田と同じように滅ぼすつもりでした。同盟関係の徳川も、いずれ領地を削り家臣にするつもりでした。

 

そこまでしなければ、真の天下人として、力が発揮できなったことでしょう。

 

しかし秀吉は、軟弱な体制の天下人ではありましたが、信長亡き後、戦乱に終止符をうつことに成功しました。

 

そして、軟弱で混乱した秀吉の天下を家康が継承して、250年の戦乱のない時代がやってきたのです。

 

秀吉は、つなぎ役としての仕事を、みごとにこなしたと言えましょう。

 

 

ひとこと

 

晩年の秀吉は、カゴのすき間から手をだして、とれない果実である明(中国)をとろうとしていたみたいですね。

(○●^▽^●○)./

   

 

花粉症の薬の種類が増えているのを、初めて知った!

 

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花粉症のアレグラという薬を飲んでいるのですが、あまり効きません。

 

目がかゆくクシャミがでて不快です。

 

先週、耳鼻科の薬剤師さんから、いつもどおり「具合はどうですか?」ときかれました。

 

いつもは「別に・・・」と素っ気ない返事をしていたのですが、その日は「薬が効かなくて、つらいよ!」と文句を言ってやりましたヾ(`Д´*)ノ

 

すると、薬剤師さんは、花粉症の薬が記された表を見せてくれ、一度、薬を変更することを、すすめてくれました。

 

その表を見てビックリしました。なんと、7~8種類ぐらい花粉症の薬があったのです。

 

私は、花粉症の薬は2種類しかない、と思っていました。

 

だから、来月は、いろいろな花粉の薬に挑戦するつもりです。

 

 

以前、強い薬に変更したら、メチャクチャ眠くなった

 

花粉症の薬、アレグラを初めて服用した時は、鼻水、クシャミ、涙、目のカユミがピタッと止まりました。

 

ところが数年後、だんだんアレグラが効かなくなりました。

 

耳鼻科でそのことを言うと、アレグラよりも効果の強い薬を処方されました。

 

その薬を服用すると、たしかに効き目があるのですが、メチャクチャ眠くなります。

 

あまりに眠くなるので、仕事にも支障がでました。なので、夜、寝る前にだけ飲むようにしました。

 

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しかし、朝、起きた後もかなり眠いのです。

 

寝る前に飲んだのだから、7時間以上の時間が過ぎているわけす。それなのに眠くて、やはり仕事にも影響がでました。

 

だから、この強い花粉症の薬をやめて、また効き目の弱いアレグラを服用するようになりました。

 

春の花粉シーズンは、涙と鼻水の季節だと自分に言い聞かせ、花粉症を我慢することにしたのです。

 

私は、もともとアレルギー性鼻炎なので、一年中、アレグラを飲んでいます。花粉の季節だけ、アレグラを飲んでいても、涙や鼻水などに悩まされます。

 

 

レーザーで治療したら効果はあったが、しんどかった

 

それでも憂鬱な花粉シーズンを少しでも改善したいと思い、耳鼻科でレーザー治療を受けたことがあります。

 

その結果、効果は抜群でした。ただし鼻だけです。

 

鼻水やクシャミは、ウソのようにでなくなりました。しかし、目のカユミと涙の症状は改善しません(;∀;)

 

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でも、花粉症の薬なら鼻と目に効果があります。

 

だから、自分の体質に合った花粉症の薬をみつけるため、いくつかの薬を試してみます。

 

また、レーザー治療をうけた夜は、鼻水とクシャミが一晩中でて、ほとんど眠れませんでした。

 

だから、もし、ふたたびレーザー治療をうける場合は、翌日が休日の日を選びたいと思います。

 

 

ひとこと

 

時々、健康に関するブログ記事を書いているのにもかかわらず、花粉症の薬の種類のことを知りませんでした。

 

月に数回、耳鼻科に何年も通院しているのに知りませんでした。

 

他にも、こんな「灯台もと暗し」みたいなことをしてないか気をつけます。

\(^ ^)/

 

 

織田信長はディズニーランドのような城を、つくろうとしていたのか(*´д`)??

 

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信長が建てた安土城は、それまでの日本には存在しない、奇想天外な城でした。

 

城というよりも博物館宗教施設のような雰囲気でした。戦よりも、信長の権威を高めるためるための城といえます。

 

しかし信長は、もともと大阪の石山に安土城のような城を建てたい、と考えていたのです。

 

ところが石山には、本願寺(石山本願寺)が巨大な要塞を築いて、信長に反抗していました。

 

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なので、しかたなく信長は安土に、巨大で絢爛豪華な城を建てたのです。

 

天正8年(1580年)、さしもの石山本願寺も織田軍に抵抗することができなくなり、信長と和議をむすび、全員が退去しました。

 

いよいよ安土城をもしのぐ、異次元の城を計画していた信長ですが、まったく着手することなく本能寺で生涯を終えます。

 

もし、信長が生きていたら、大阪の石山にどんな城をたてたのでしょうか。秀吉や家康がたてた大阪城のような、無骨な城は建てなかったでしょう。

 

おそらく信長らしい斬新なアイディアで、安土城以上の城を築いたと考えられます。

 

 

西洋風の城をつくろうとしていたのか?

 

当然ですが、信長のまわりには優れたブレーンがいました。

 

そのブレーンの中には、古代、日本がどのようにして天皇のもとに統一されたのか、詳しい者もいたはずです。

 

もちろん、古代も武力による争いが繰りひろげられました。

 

ある程度、日本が統一された後は、その政権の権威づけが必要です。邪馬台国の卑弥呼のように、宗教的な権威で治めることも多かったです。

 

巨大な古墳も権威を見せつけるものでした。

 

6世紀半ば(552年)に、中国の仏教が朝鮮半島を経由して、日本へ伝えられました。仏教とともに中国のすぐれた文明もやってきました。

 

日本の支配者は、政権の権威を強化するために、仏教中華文明を利用しました。巨大な大仏や建造物を、たくさん建てたりしたのです。

 

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・・・・それじゃ、俺の場合は、キリスト教や西洋文明を利用しようかな、と信長は考えたかもしれません。

 

もし、そうならば、石山本願寺跡にディズニーランドのような西洋風の城を、建てたかもしれませんね\(^○^)/

 

 

信長は、何になろうとしていたのか?

 

信長は晩年、朝廷からの官位はすべて返上しました。朝廷から将軍職をすすめられましたが、それも断わりました。

 

「上様」と家臣から信長はよばれていましたが、正式な身分を表す呼び名がなかったのです。

 

いったい信長は、何になろうとしていたのでしょうか。西洋の皇帝を名のろうとしていたのでしょうか。

 

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天皇と皇帝は同じような意味があるので、それも考えられません。

 

もしかしたらスペイン語で宰相を意味する「Primeiro ministro(発音は不明です)」を名のろうとしていたかもしれません(*´д`)??

 

 

ひとこと

 

明治初期、やたらと洋風建物が増えたことを考えれば、信長も似たようなことをしていた気がします(´∀`*)

 

 

徳川慶喜(最後の将軍)と戦国の毛利輝元の共通点とは?

 

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徳川慶喜と毛利輝元の共通点とは、優柔不断なところです。

 

味方と敵の間で、どのように戦うのか、あるいは降伏するのか悩み抜いたところが似ています。

 

この二人は、本音では早く降伏して国、あるいは家の存続を守りたい、と思わせるような行動が目立ちます。

 

降伏するために、重臣や家来からの不満を押さえるために、苦心していた感じです。

 

しかし、優柔不断と決めつけるのは偏った見かたではないでしょうか。

 

良い方にとらえれば、先見の明があった、といえます。

 

勝てる確率が非常に低い戦をして、国や家を滅ぼすよりも、降伏してそれを避ける道を選択したのです。

 

『孫子の兵法』に「勝算なきは戦わず」とあります。

 

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武田信玄や織田信長、古代中国の劉邦などの名将は、負けて逃げることが得意でした。

 

しかし、徳川慶喜と毛利輝元は、おかれた状況が複雑だったため、後に優柔普段の印象を残すことになりました。

 

昭和初期の日本の軍が、どこかの時点で上手く負けていれば、太平洋戦争の悲劇はおこらなかったでしょう。

 

そう考えると、徳川慶喜と毛利輝元は、「偉大な負けリーダー」と賞賛されるべきかもしれません?

 

 

官軍よりも外国に負けることを恐れた徳川慶喜

 

幕末、兵の数では圧倒的に幕府は官軍を圧倒していました。しかし、士気と軍備、大義名分では官軍の方が優れていました。

 

幕府が本気になって攻め、勝てたとしても、欧米列強の植民地になるリスクも高いです。

 

幕府が官軍に勝ったにせよ負けたにせよ、日本が外国に負ける確率は非常に高くなるのです。

 

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つまり、幕府と官軍との内乱を早く終決させて、日本が外国に対抗できる体制をつくろう、と考えていたのです。

 

といっても三百年近く続いた幕府を簡単に終わらせては、家臣が納得しません。

 

家臣を納得させ、徳川幕府の名誉を守りながら降伏するために、徳川慶喜は散々、苦労したのでした。

 

まわりからは「二心殿」とか、「優柔不断」とか罵られましたが、早期に降伏して、みごと江戸無血開城を成功させ、外国からの侵略の隙をつくりませんでした。

 

 

清水宗治の切腹で家臣を納得させた毛利輝元

 

戦国時代、羽柴秀吉に負けた毛利方の清水宗治は、数万人の見ている前で切腹して、はてました。

 

水攻めで、湖に浮かぶ高松城から船であらわれ、船上で敵味方、数万の前で自害しました。

 

普通、切腹は部屋の中か庭でおこないます。数万人の前で腹を切るのは、日本史上、清水宗治だけです。

 

このとき、本能寺で信長が亡くなったことは、毛利にも家来にも知られていません。

 

たとえ家来に信長の死去が知られても、負け戦ではなく、勝ち戦であることをアピールするために、こんな前代未聞の切腹大イベントを、秀吉は、おこなったのです。

 

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これは負けた側である毛利輝元にとっても、好都合でした。家臣や家来に降伏することを納得させられるからです。

 

毛利軍は、三方を敵に囲まれ、強力な織田軍団との戦に兵力財政が限界にきていたのです。

 

だから天下を制す勢いの織田家に降伏したほうが生き残れる確立が高いと考えていました。

 

清水宗治の切腹は、降伏をしなければならない状況を、自軍にアピールするための最高の演出です。

 

これが切っ掛けで、毛利家は江戸末期まで続き、幕末、大活躍することができたのでした。

 

 

ひとこと

 

第二次世界大戦で、無差別爆撃や原爆が投下される前に降伏していれば、日本本土で、あれほど大きな犠牲者はでなかったでしょう。

 

ですから、徳川慶喜と毛利輝元のように、犠牲を最小減にするための上手い負け方は、優柔不断どころか、やはり賞賛されるべきことと言えそうです・

(●>∀<)!!!

 

 

織田信長は、明(中国)に侵攻するつもりだったのかヽ(#`Д´)ノ

 

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豊臣秀吉は、を攻めるための足掛かりとして、朝鮮半島で戦を繰りひろげました。

 

その結果、寸土の領地も得られず、多大な人命と戦費を失いました。

 

そもそも島国から大陸の明に攻め込むこと自体、無謀な行為です。それまでの秀吉らしくない、無計画な戦でした。

 

もし、織田信長が本能寺で亡くならず、天下統一をしたら、秀吉と同じように、明に侵攻したでしょうか?

 

おそらく攻めこまなかったのではないかと思います・・・・。

 

秀吉の大阪城が建つ前は、その土地に石山本願寺がありました。

 

信長は、石山本願寺に何年もかけ猛攻を加えました。その地域が天下を治めるためと、海外進出のために必要だったからです。

 

信長の計画していた海外進出とは、どんなものだったのでしょうか?

 

 

計画マニアだった信長

 

信長は周到に計画をねり、何年もかけて目標を達成するタイプの人間でした。

 

とても短気そうなイメージがある信長ですが、わずかな例外を除いて衝動的な行動は極力、避けました。

 

「孫子の兵法」でも、孫子は衝動的な行動を一番、嫌っています。理屈で考え抜いた行動を奨励しています。

 

まさに信長は、理屈で考え抜いた計画を実行して、領土を増やした見本のような戦国大名です。

 

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そして、美濃を獲るのに七年、石山本願寺を倒すのに五年の年月を費やしたのです。

 

美濃と石山本願寺の何百倍もありそうな、明の領土と城を攻めようとしたら、当然、七年や五年どころではありません。まったく見当がつきません。

 

それどころか失敗する確率のほうが高いと考えるのが、自然です。

 

だから信長は、明攻めなど眼中になかったはずです。

 

 

西洋の文明を輸入しようとしていた信長

 

古代から大阪城の付近の難波あたりに都がおかれ、朝鮮半島や中国大陸との貿易で利用されていました。

 

瀬戸内海ルートによる船での行き来がとても便利な地だったのです。

 

朝鮮や中国、国内勢力と敵対関係になると、海が近い平地のため、防御力の弱い、難波の付近をさけ、奈良盆地や大津などへ都を移したりしました。

 

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しかし戦国時代、鉄砲の出現によって、平地の砦や城でも防御力が強くなり、石山本願寺や秀吉の大阪城がたてられたのです。

 

信長は、その地に西洋文明を輸入するための、巨大で絢爛豪華な城を築こうとしていた可能性があります。

 

 

ひとこと

 

尾張一国の領主だったころの信長は、武田信玄にペコペコして、ご機嫌をとっていました。

 

同じようにスペインやポルトガルに対しても、キリスト教の教会を建ててあげたり、布教をゆるしたりして、ご機嫌をとっていました。

 

これは西洋文明をどんどん取り入れるためのご機嫌とりです。

 

そして、西洋に負けないぐらいの西洋文明が日本に根付いたとき、海外の領土を狙うつもりだったのでしょう。

 

武田氏を滅ぼしたのと同じように、最後はスペインやポルトガルが領有している東アジアの植民地を、信長は、すべて奪ってやろうと考えていたかもしれません。

(●`□´●)???