みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

中国の文明とモノマネ文化

 

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中国のモノマネ文化は有名になりすぎて、いまではニュースでも、滅多にお目にかかれません。

 

以前、ディズニーや日本メーカーのパクリをニュースで見たときは、よく恥ずかしくないものだと感心しました(゚Д゚;)

 

中国は、言わずと知れた中華思想の国です。孔子の儒教が生まれた「礼節の国」でもありました。

 

まさか、あんなセコイことをする国になるとは思いませんでした。

 

日本にとって「師の国」でもあった中国は、どこへいってしまったのでしょうか?

 

 

モノマネされる側だった

 

世界四大文明は大河の流域から起こっています。

 

なぜ、大河の流域から文明が発達するのでしょうか。それは河川を利用して、各地域や様々な国から人が集うからです。そして交易がおこなわれます。

 

交易をとおして、様々な文化文明が触発し合い、互いに切磋琢磨します。文明の競争が生まれて、発展していくことができるのです。

 

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後に、陸の交易路(シルクロード)や海の交易路も盛んになりました。

 

中国の四大発明である印刷、火薬、紙、羅針盤も、陸と海の交易路から世界に伝わったのです。

 

もちろん、日本、朝鮮を含めた中国周辺国も、中国文明から大きな恩恵を受けました。

 

ある意味、中国はもともと、モノマネする側ではなく、モノマネされる側だったのです。

 

ところが、いつのまにかモノマネ国となってしまいました。

 

 

独裁的な中央集権国家が原因なのか?

 

広大な中国は他民族国家です。中国内で言語も多種ありました。周辺の国とは陸続きです。このため古代から中国は、内乱や異民族との争いが絶えません。

 

だから、国を統治するためには、強い中央集権国家が不可欠です。

 

しかし、強力な独裁的中央集権下の官僚支配は、しばしば腐敗堕落の巣と化しました。官僚への賄賂が横行します。

 

そうなると、四大発明をしたころの中国は影をひそめ、文明の切磋琢磨ではなく、官僚へ取り入るための競争が盛んになります。

 

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いくら優れた技術があっても、官僚のご機嫌をとらなければ、認められません。

 

努力よりも要領が重視されるようになったのです。

 

商品がモノマネで低品質でも、要領よく売ってしまえばいいんだ、という風潮が形勢されたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

ひところまで日本で、中国人観光客の爆買いが盛んでした。爆買の原因は、それだけ中国国内の商品が低品質なことが理由の一つです。

 

今でこそ日本の商品は高品質で、「Made in japan(メイドインジャパン)」は海外で大人気です。

 

しかし、昭和30年代ごろの日本の製品は低品質とみなされ、海外で人気がなかったそうです。

 

だから、いつか中国も「Made in China(メイドインチャイナ)」と、もてはやされる時代がくるかもしれません(●>v<●)

 

 

本能寺の変の後、なぜ秀吉は滅亡しなかったのか?

 

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本能寺で織田信長が横死した後、羽柴秀吉は瞬く間に天下人まで駆け上がった印象を受けます。

 

でも、「本能寺の変」直後の状況をみると、秀吉が滅亡しなかったのが不思議なくらいです。

 

本能寺の変の知らせを聞いたとき、秀吉は備中(岡山県西部)で毛利の大軍と対峙していました。

 

このとき、秀吉の軍は、宇喜多勢1万を含め合計約3万です。毛利は約4万の大軍で陣を張っていました。

 

信長の死を知ったならば、兵力で勝る毛利は、猛然と秀吉軍に襲いかかるはずです。

 

また、信長の死が広まれば兵士の逃亡が相次ぎ、軍は崩壊します。農民も土寇(どこう)と化し、秀吉に襲いかかるはずです。

 

まさに、秀吉の命は風前の灯・・・・となるところでしたが(゚□゚;)

 

 

広範な情報網を敷いていたのか?

 

秀吉は運に恵まれた、とも言えます。しかし、秀吉が信長から学んだ「情報戦略」も見逃せません。

 

秀吉は、独自の緻密な情報網を敷いていたのではないでしょうか。

 

戦国時代、一人の人間が持っていた手紙を信用することは、ありえません。敵が放ったワナであることも多いからです。

 

秀吉は、京都に潜伏させていた間者からも、信長の死を知らされた可能性があります。

 

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主君の側に間者を潜ませることは、あらぬ疑いをかけられるので、公(おおやけ)にはできません。

 

だから、光秀が毛利に送った密使が間違えて秀吉の陣に入った、ということにしたのかもしれません。

 

そうでなければ、あのような思い切った決断をくだすのは難しいでしょう。

 

 

軍の崩壊を防ぐ策が功を奏した!

 

秀吉は、高松城の城主・清水宗治を湖面の船上で自害させます。秀吉や毛利の数万の兵が見ていました。

 

数万人の前で切腹したのは、日本史上で唯一、清水宗治だけでしょう。

 

当初、毛利は、清水宗治の切腹に反対でした。毛利の支配する5カ国割譲を条件で、秀吉との講和を切望していたのです。

 

しかし秀吉は、5カ国割譲を3カ国割譲にゆるめて、清水宗治の切腹を承諾させました。

 

このとき、秀吉にとって、2カ国よりも清水宗治の切腹の方が何倍も重要だったのです。清水宗治が切腹することで、秀吉軍の勝利が明確に配下の兵に伝わるからです。

 

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清水宗治の切腹によって、撤退ではなく「光秀討滅」の出陣であることを、全軍にアピールできます。

 

そして講和の成立後、本能寺で信長が光秀に殺されたことを、秀吉は配下の兵に公表します。信長の仇討ちのため、京へ向かう軍令を出しました。

 

さらに、信長の仇である光秀を滅ぼしたら、足軽は組頭に、組頭は大将に、大将は諸侯になれる、と秀吉は大声で全軍に訴えかけます。

 

軍の士気は一気に高まります。誰もが逃亡など考えもせず、出世を夢見て一丸となって、京へ向かったのでした。

 

秀吉の演出とタイミングの良さは抜群です(`▽´)

 

参考:備中高松城の戦い-ウィキペディア

 

  

ひとこと

 

本能寺の変の後、神戸にいた丹羽長秀と織田信孝の軍は、瞬く間に崩壊しました。2万の兵が3千ほどに減ってしまったのです。

 

神戸は京都に近いため、信長の死がすぐに全軍に知られたため、といわれています。

 

しかし、京都に情報網を敷いておけば、兵より早く知ることができたはずです。そして、「仇討ち」を大儀名分に掲げ、軍の崩壊を防げたかもしれません。

 

両者は情報戦については、秀吉のように上手くなかったようですね。

(●^U^●)

 

 

戦国時代、上杉謙信は織田信長をメチャクチャ助けていた!

 

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織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼして、100万石の大名になったとき、隣国の信濃は、武田信玄に支配されていました。

 

当時、戦国時代最大の大名といわれていた武田信玄は、最強の戦国武将でもありました。

 

もし、信長が信玄と戦えば、ほとんど勝ち目がありません。信玄の兵は、一人で三人の敵を倒せる、といわれるほど強かったからです。

 

逆に、信長の尾張兵は、弱いことで有名でした。戦で少しでも不利になると、逃げだす臆病者が多かったのです。

 

だから信長は、信玄にやたらとゴマをすります。贈り物を届けたり、自分の養女を信玄の息子に嫁がせます。

 

弱肉強食の戦国時代は、ゴマをすったからと安心できるわけではありません。ゴマすりは、単なる時間稼ぎといえましょう。

 

ところが、信長に幸運が舞い込みます。それは上杉謙信という化け物みたいに強い戦国大名が、武田信玄と戦い続けたからです。

 

信玄は信長の領土を狙う余裕がなくなりました。上杉謙信に常に脅かされるようになったからです。

 

 

謙信は天下に野心がなく、関東の平定を目指していた

 

関東管領である上杉謙信は、関東を平定することに熱心で、天下をとる野望がありません。

 

なので、関東の大勢力・北条氏とも戦い続けました。これも信長に幸いしました。

 

謙信に常に領土を踏みにじられていた北条氏は、信長の同盟者・徳川家康を攻撃する余裕がありません。

 

謙信、あるいは信玄から領土を守るのが精一杯でした。

 

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上杉謙信が武田氏と北条氏の大勢力を抑えてくれたおかげで、信長は西へ領土を拡大していくことができたのです。

 

まるで信長のために、上杉謙信は戦っていたような気さえしてきます。

 

後に、武田氏や上杉氏、北条氏が信長や秀吉に敵対しましたが、時すでに遅く、天下の大半を制した上方の兵に打ち負かされます。

  

 

信長と正反対の上杉謙信

 

上杉謙信の戦い方は、織田信長と対照的です。

 

信長は戦術では謙信に劣り、戦略で勝っていた。信長は恥も外聞も気にしないが、謙信は気にした。信長はウソが言えたが、謙信は正直だった・・・・などといわれています。

 

信長は、天下とりのために合理的な戦いをしましたが、謙信はのために戦うことが多く、合理的とはいえない面があったのです。

 

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謙信は、雪の降らない季節に出兵して、関東の大半を支配しますが、雪が降る前に本拠地の越後に帰ります。

 

謙信が去った後、北条氏が謙信の支配地を奪い返します。北信濃でも、謙信が去った後、武田信玄が領地を奪い返しています。

 

また、謙信が自ずから兵を率いて、あちこち出兵します。

 

謙信の兵の強さ、戦の頻度の割りには、領土を拡大できなかったようです。

 

これとは逆に信長は、骨折損になるような戦は極力避け、着実に領土が拡大できるよう戦った、といえましょう。

 

 

ひとこと

 

織田信長にとって上杉謙信は、ある時期まで「敵の敵は友」の典型でした。

( ●^д^●)

 

なぜ、武士が生まれたのか?

 

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日本には、弥生時代から戦う兵士が存在しました。しかし、武士が生まれたのは、平安時代ごろからです。

 

そもそも兵士と武士の違いとは、何なのでしょうか。どちらも同じような感じがします。

 

まずが違いますが、「兵」と「武」にどんな違いがあるのでしょうか?

 

兵士は、軍隊に属して敵と戦う者のことです。

 

武士も敵と戦う点では同じですが、主に反乱を収めるために戦うという説があります。

 

「武」は、「戈(力、ほこ)」と「止」を組み合わせた合意文字です。

 

「戈」とは、長棒の先にピッケル状の穂先がついた武器です。古代中国で使われていました。

 

武器である「戈」の中に「止」という文字が入って、争いを止める、という意味があるといわれています。

 

他にもいろいろな説がありますが、「兵士」と区別するためにつけられた呼び方であることは間違いありません。

 

兵士は身分の低い者が多かったので、天皇の子孫など身分の高い者が戦をする場合、「兵士」とか「兵」とか呼ぶわけにはいかず、「武士」と呼んだのかもしれません。

 

また、孔子が編纂した注釈書の一つと伝えられる「春秋左氏伝」の「戈を止める」から「武」の文字を解釈して、権威付けしたとも考えられます(^_^)

 

 

平氏と源氏が武士の始まりだった?

 

天皇の一族である皇族から臣籍降下(しんせきこうか)した平氏源氏の中には、武士となった一族がいます。

 

桓武平氏と清和源氏です。この両氏は、反乱を鎮圧するために、坂東(関東)に下りました。しかし役目が終わった後も、坂東の地に居座る者もいました。

 

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それらの武士団が国衙や荘園領主と結びついて、領地を増やし坂東で地盤を固めたのでした。平将門や、平清盛の祖先でもある平貞盛が有名です。

 

地元の農民も配下に入れて、坂東の武士団は次第に勢力を増していきます。

 

都の貴族は、武士は戦などの汚れ仕事をする集団として、見下していました。後に武士から政権が奪われるとは、夢にも思っていなかったのです。

 

 

農民も武士になった?

 

次第に、平氏と源氏の配下以外にも、武装していた農民も武士と呼ばれるようになりました。

 

武装した農民の中には、勝手に平氏や源氏の子孫であると自称する者が現われます。正確な戸籍簿のない時代でしたから、言ったもん勝ちでした。

 

つまり農民と武士を兼ねる者が増えていったのです。この武士たちは、都の貴族などに年貢を納めていました。

 

しかし、自分達が命がけで土地を守り、汗水たらして収穫した米を、貴族など権力者の言われるままに、年貢として払うことへの不満が高まっていきました。

 

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その不満の高まりが、貴族が日本を支配する時代から、武士が支配する時代へと向かわせたのです。それが鎌倉幕府(1185年頃-1333年)の始まりです。

 

鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府(1338年-1573年)、江戸幕府(1603年-1867年)が開かれ、明治維新まで武士の時代が続きました。

 

江戸時代は身分制度が整い、農民と武士を兼ねる者は、原則、いなくなりました。でも、「郷士」といわれる農民と武士を兼ねる身分も存在していたのです。

 

この郷士の中から幕末、明治維新で活躍した人材が多くあらわれました。

 

 

ひとこと

 

お隣の朝鮮半島では、高麗時代に武臣政権(1170年-1270年)という武人が支配する時代がありました。

 

ちょうど日本の武士政権・鎌倉幕府と同じような時代です。

 

日本のように武士(軍人)が支配する政権が長期に続いた国は、世界の中でも珍しいそうです。

 

そのせいなのか、日本の武士は、海外から人気がありますね(●^д^●)

 

 

織田信長は、宣伝マンだった!

 

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戦国時代に広告代理店はありませんが、戦国大名は誰でも宣伝マンのような仕事に熱心でした。

 

ある意味、兵の数よりも重要だったのです。

 

兵の数が少なくても、宣伝(情報戦)が上手ければ、兵をより多く集めることができ、戦に勝利できます。

 

逆に、宣伝が下手だと、兵が多くても裏切ったり、逃亡したりします。

 

とくに接戦の場合、宣伝力の差で戦の勝敗を決めることもあったのです。

 

織田信長は、この宣伝マンとしての能力も、他の戦国大名を圧倒していました。

 

 

民衆の口コミを最大限に利用した信長

 

戦国時代は、現代のようにテレビや新聞、インターネットもありません。宣伝媒体は、人間の口から口に伝えられる口コミでした。

 

この口コミを最大限に利用する仕組みを、信長は作りました。

 

つまり、民衆を味方につけ、信長に有利な口コミが起こる仕組みをつくったのです。

 

ちょっとAmazonのレビューに似ているかもしれません。レビューが商品の売れ行きを大きく左右させますね。

 

戦国時代は、口コミが戦国大名の評価を左右させたのです。(`∇´)

 

民衆を味方につけた方法が、孫子兵法にも載ってない画期的なものでした。もちろん、他の戦国大名は実践するどころか、考えもしなかったでしょう。

 

それは、敵地の民衆から略奪を行わないことです。敵地の民衆から食料を徴収する場合、必ず金を払っていたのです。

 

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戦国時代は、敵地の民衆から食料を略奪することが当たり前でした。それどころか、女性は辱められ、男性は奴婢にされたりしました。

 

だから戦がはじまると、村人は山に逃げたりします。そして、敵国の兵には、たいへん強い恨みを抱きます。

 

当然、敵国に関する口コミは、悪い評判しか出てきません。

 

信長は、これとは逆のことを行ったのです。

 

敵国の民衆は、信長の兵がやってきても、安心できるため、好意を抱きます。信長の兵に関する口コミも好意的になります。

 

その良好な口コミ媒体に信長は、「信長は、戦で勝利した!」という噂を盛んに流します。

 

すると、その信長の勝利の(流言)に魅かれ、多くの味方する勢力や兵が集まってくるのです。

 

戦をするなら誰でも勝ちそうな側に、味方したがります。

 

信長の噂を流す方法は、人間の心理を上手く利用した口コミ媒体宣伝といえましょう。

 

 

敗北の噂を恐れた信長

 

民衆を味方につけたとはいえ、ウソの噂はなるべく避けました。ウソがバレルと逆効果になるからです。

 

だから、不利になるような噂が流れないよう、信長は極力注意しました。

 

勝利した戦でも、無理な深追いは避けました。深追いして逆襲されると、勝利ではなく、引き分けか、最悪の場合、尾ひれがついて敗北の噂が流れてしまうからです。

 

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城攻めで敵が頑強に抵抗して、勝利が見込めないとき、無理やり「講和(引く訳)」に持ち込んだこともあります。

 

信長包囲網(敵対勢力が包囲)のとき、四方を敵に囲まれた信長は、一箇所に長く留まると不利です。といって、下手に兵を撤退させると、「信長が敗北した!」との噂が流れる恐れがあります。あの手この手で「講和」して、敗北の噂を防いだのです。

 

巧みな宣伝活動によって、信長は、他の戦国大名より有利に戦をすすめることができたのでした。

 

 

ひとこと

 

信長の愛弟子である羽柴秀吉も、宣伝(情報戦)がメチャクチャ上手かったです。

 

信長の息子や他の家臣は、秀吉に遠く及びませんでした。

 

秀吉は宣伝が上手かったから、天下がとれたのかもしれません。

(●´I`●)

 

 

維新後、ドイツをモデルにした日本(´△`)

 

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明治維新後、日本は新たな国家を築くために模索していました。

 

西洋の近代化に追いつくため、使節団を欧米に派遣しました。岩倉具視を正使とした岩倉使節団(明治4年~明治6年、1871年~1873年)です。

 

アメリカやイギリス、フランスなど視察しましたが、あまりにも日本との文明の差が大きいことに、愕然としました。

 

当時の日本は、燃料は薪、明かりはロウソク、通信は飛脚、陸の交通は馬か人力、船は帆船でした。

 

ところが西洋は、燃料は石油・石炭、明かりは電気・ガス、通信は電気通信、陸の交通は鉄道、船は蒸気船です。

 

圧倒的な差がありました。

 

その産業の担い手は、国営だけでなく民間企業も多数占めていました。民間企業が自由に競争して、産業・経済を活性化させていたのです。

 

日本の使節団の誰もが、いきなり西洋をマネするのは不可能だ、と考えました。

 

いったい、西洋のどの国をモデルとしたらいいのか、悩みました。

 

 

日本と似ていたドイツ

 

ところがドイツを訪れたとき、希望の光がみえました。ドイツは、日本と共通する部分があったからです。

 

1871年、約300の領邦(半自立の国)から成るドイツが統一されました。国内のゴタゴタで忙しかったドイツは、他の西洋の国より産業が遅れていました。

 

遅れを取り戻すため、主に国営で産業を発展させようよとしてたのです。産業を管理するのは、国の官僚です。

 

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産業革命を成功させたイギリスは、民間企業による市場経済に力を入れていました。しかし、まがい物商品や詐欺が横行していました。

 

ドイツは、混乱を防ぐため、国の官僚に産業や市場を管理させたのです。

 

日本の使節団の中でも、大久保利通がドイツから学ぶことに熱心でした。

 

 

国営企業をつくった

 

使節団の帰国後、民営の企業もできましたが、徐々に政府所有の国有企業を発足させていきました。

 

電電公社(現NTTグループ)や国鉄(現JR東日本・西日本)、日本郵政公社(現日本本郵政グループ)などが有名ですね。

 

産業以外にも、医学や軍事について、日本はドイツから学びました。

 

いくつもの国有企業ができましたが、現在では、その多くが民営化されました。国有化企業の欠点を無くすためと、市場を活性化するために行なわれた、といわれています。

 

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ある国有企業はコスト意識に欠け、赤字を膨らませました。ライバルがいないため、サービスや料金面で顧客満足が得られない国有企業もありました。民営化によって、それが改善されるようになつたのです。

 

いずれにしろ、武士階級の封建制度から脱却して、近代化を目指す岩倉使節団の決断は正しかった、といえましょう(^_^)

 

 

ひとこと

 

使節団が帰国後、国営企業をつくり、役人を採用するとの考えを公にしたら、元武士階級の不満が高まりました。

 

萩の乱や佐賀の乱、西南戦争が起こった一因にもなったようです(o゜ー゜o)??

 

 

内閣という漢語は、明(中国)がつくった(´∀`me)??

 

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明日、10月10日に衆議院選挙が公示されます。テレビや新聞を見ていると、なんか、メチャクチャな選挙になりそうです。

 

9月28日に衆議院が解散されましたが、それと同時に衆議院議員は、全員クビになりました。現在、日本に衆議院議員が存在しないのです。

 

そんなときに北朝鮮からミサイルが飛んできたり、災害が起きても大丈夫なのか、と疑問がわきます。

 

でも、昨日、テレビを見ていたら、池上彰がそのことを解説していました。衆議院が解散しても、「内閣」は存在しているので、通常どおりの対応ができるとのこと。

 

「内閣」って便利なものだな、と、ちょっと感心しました。

 

この「内閣」という漢語は、日本ではなく、中国の明王朝がつくったのです。

 

 

明の洪武帝は権力を集中させた

 

明(みん、1368年 - 1644年)は、洪武帝(朱元璋)が建国した中国の王朝です。

 

この洪武帝は、たいへんな勉強家でした。過去の中国の王朝が滅亡した原因を、徹底的に調べたのです。

 

調べてみると、王朝滅亡の原因には、あるパターンがあることを発見します。

 

それは「権力」の流動性です。

 

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「権力」とは、何かの切っ掛けで、宦官や軍人、重臣、役人、皇后、皇帝の母親などに、握られてしまうことがあるのです。

 

日本では、将軍の乳母やお犬さまにも権力がありましたね(・・?)

 

つまり、皇帝から「権力」が奪われたり、弱まったときに王朝が弱体化して滅亡へ向かう、ということです。

 

それを防ぐために洪武帝は、家臣や軍人に極力、権限を与えないようにしました。皇帝にだけ権力が集中するようにしたのです。

 

 

内閣は皇帝の補助

 

では、なぜ「内閣」をつくったのでしょうか。権力を皇帝に集中させるための補助として、つくられたのです。

 

広大な明帝国を、皇帝一人で取り仕切るの無理です。

 

そこで皇帝の実務を補佐する「内閣」をつくりました。皇帝の秘書や顧問みたいな役で、権限はありません。また、持たせないようにしました。

 

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秦王朝は、取次ぎ役の宦官が権限を握ったことが、滅亡の一因になりました。

 

隋・唐は、軍人に権限を与え過ぎて、謀反を起こされ、滅亡します。

 

逆には、隋・唐を反面教師として、軍人の権限を低くして、文官の地位を上げました。それによって、宋の軍事力は弱体化して、異民族に圧迫され、滅亡しました。

 

だから洪武帝は、それら過去の王朝の二の舞にならないよう、権力を皇帝に集中させたのです。

 

しかし、明王朝第五代皇帝のころから「内閣」が次第に権力を持つようになりました。

 

権力を皇帝に集中させる、という洪武帝の努力も空しく、過去の王朝と同じように、明王朝は滅亡への道にすすんだのです。

 

 

ひとこと

 

豊臣秀吉が朝鮮を攻め、明が援軍を送ったことも、明王朝滅亡の一因です。

 

明の「内閣」はガタガタになっていたのでしょうね( ?´_ゝ`)